ALL iz thiik hai! 一社会言語学者のブログ

社会言語学&バイリンガリズム&南アジア系移民 研究を中心とした自分の思索の記録 ALL iz thiik hai とは、訳すと「ALL is オーケーだ」。かなり色々なものをかけたマニアックで深ーい表現。

東京オリンピック・パラリンピックのコンセプトは非共通語にしてほしい

dlitさんの記事を読んで触発され、私も、ざっくりと私見を書いてみた。

 

(2021年7月22日 9:52更新 推敲していなかったので、少しだけいじりました。下線分が、初版と少し変わったところです。内容ないし主な論旨は変えていません。)

 

dlitさんの記事

dlit.hatenadiary.com 

東京オリパラの開閉会式の3つの英語コンセプト

 

 日置貴之開閉会式エグゼクティブプロデューサーという人物が、オリンピックおよびパラリンピックの開閉会式の共通コンセプトを"新型コロナウイルス禍において「前を向いて生きるエネルギー」を意味する「Moving Forward」" (日刊スポーツ 2021年7月14日)としているのだという。

 

www.nikkansports.com

 

日本語にはしない、と言いながら、「前を向いて生きるエネルギー」を意味する、という(日置氏本人のことばかどうかはよくわからないが)。Moving forwardをより直訳的な「前進する」に置き換えなかったという点を工夫したのかもしれない。しかし、世界観としては、前に進む、前向き、乗り越える、という、英語や日本語などではよく使う表現である。

 

他の情報源からすると、この他にも2つコンセプトがあるらしい。"United by Emotion"と"Worlds we share"らしい。

 

"Worlds we share"って面白い。Worldが複数形になっている。いわゆる地球という意味での「世界」は常に単数で使われる。複数になるのは、パラレルワールドとか、異次元とか、また日本語の「あなたと私は別世界の人間」という意味で理解不能な人たちの間とかなのが一般的な用法だと私は思う。そのような一般的な使われ方の一方で、その複数の相容れない世界をshare(共有)とは。そこまで考えたのだろうか。それならば、なぜあえてそうしたのか、解説しないと、わからないだろう。WorldとWorldsの違いに気が付いた私もわからないのであれば、気が付かずに翻訳を通じて知ることになる人々にはもっと伝わらない。世界は多様で、様々な人がいるのだから、言葉を使ってコミュニケーションをするなら、言葉を尽くして説明してほしい。

 

でも結局その3つのコンセプトは、私から見れば(私に詩的なセンスやコピーライター的なセンスがあるという自負はないが)、1年後にはもう忘れていそうなくらい陳腐である。ご本人としては、日本語では表現しきれない英語に託してつけたつもりなのかもしれない。Moving forwardの-ingの形式や、Unitedやshareは、英語で使われているのと同じくらいの日常的な感覚の日本語の単語や表現に直訳できないのは確かである。日本語世界や、ご本人の住まう英語の世界では、日本語にそっくりニュアンスや意味を直訳できないので、新鮮なのかもしれない。しかし、私みたいな一介の英語教員にとっては、既に英語にありふれている表現を反芻した表現でしかない。しかも、職業柄、日本人の英作文をたくさん見てきたから、「ああ、日本語の直訳からは生まれない英語の表現が使えて、上手ですね、よくできました」という、英語学習という文脈での英作文の評価みたいな反応についなってしまう。

 

もしかしたら響いてこないのは、私が文学の専門ではなくて、何かことばの美的なセンスが違うからのかもしれない。ただしそれでも、私と同じような、英語をたくさん使ってきた一般人にとっても、同様に本当にどうってこということのない表現である可能性があるということだ。しかも、この大会が日本開催、コンセプトが日本発だからこその新しさもない。

そういう意味では、"Hello, our stadium"はネイティブにはさんざんけなされていたが、小学校等で「さようなら、私たちの学び舎」「さようなら、旧校舎」と普通にイベントのスローガンにするような、日本の建物に対する態度(アミニズム的な世界観?)が反映されているように見えて面白かった。(でも、機械翻訳の可能性も排除できないので、本当にどういう経緯でああいう表現になったのかは知りたいが。)

 

多様性が重要だというのなら、コンセプトは非共通語のみの表現で

 さてさて本題(記事タイトル)。今回、触発されたdlitさん(日本語の研究者―言語学)のブログで注目したのは、この箇所である。

 

私が気になるのはやはり言語のことです。簡単にまとめると,ダイバーシティ(多様性)が重要というのなら,英語という1つの言語ではなく(できるだけ)多言語でやりましょうよとなるかな。

 

私の意見としては、ダイバーシティ(多様性)が重要というのなら、非共通語でやりましょうよ、となる。その心は、dlitさんと同じものに端を発する。つまり、言語多様性(特に少数言語、方言)の尊重の推進である。

 

オリンピックは、国と国を意識しながら、多様性を礼賛してきた。公式言語は英語とフランス語かもしれないが、他の言語の尊重を意識してか、すでに、開会式の入場順を、開催地の公用語の文字体系による順番にしている。

 

同時通訳や字幕がついた状態で観戦することが多いわけだから、メディアを通じて観戦している圧倒的多数の観客は、オリンピックの現地で使われていることばは、あまり意識することはないだろう。

 

だからこそ、言語多様性への意識を推進させようとする立場としては、言語多様性を反映させるのに、開会式だけではなく、コンセプトまで現地語ないし非共通語(例えばその国の公用語ではない言語など)にすればよいと考える。

 

dlitさんの「多言語化」も悪くはないだろう。しかし、まず問題になるのは、どの多言語が選ばれるか、である。日本語、英語、札幌方言(競技開催地)、アイヌ語(北海道、開催国の少数言語)福島方言(競技開催地+「復興」)?それとも、「国際性」を意識して、国連のようにアラビア語やスペイン語を加えるのだろうか?地域性を考えて韓国語と中国語?どれも、政治的な判断が必要となり、その判断の説明が要求される。また、それぞれに慎重な翻訳が必要になる。その点まで考慮して行うのも、ありだろう。

しかし、私が代替として提案するのは、「多様性」の推進として、あえて多言語化しないことである。

 

メディアで見たときに、言語の数が多くなればなるほど、自分の理解する言語しか見えなくなる(言語オタク以外は)。また、自分が理解する言語で理解した概念がそっくりそのまま同じ形で互換可能だという印象を受けるだろう。

情報化およびテクノロジーに媒介された現代では、辞書や自動翻訳が当然の存在となった。「コミュニケーション」がもてはやされながら、言語が橋渡しする世界の違いに対する感受性が鈍化しているように思われる。どこにいても同じ媒体でつながれ、テクノロジーで転換して理解できるから、自分の理解可能な状態でその言語と触れ合うのが当然となっている。多言語表記は、複数言語の地位を見た目として(つまり政治的に)平等にすることという意味での等価性を表現できる。しかし、それは、全ての言語表現が何らかの形でぴったりと翻訳可能であるという意味で、言語の等価性があるという(歪んだ、あるいは偏った)認識を促す。

日本語と英語とアイヌ語で何かが併記されていたとする。私には日本語や英語に関して「〇〇を彷彿とさせる」とか「〇〇の印象を与える」といった判断ができる。しかし、アイヌ語版は、その表現はどの程度使われるのか私にはわからない。アイヌ語を使う人々や世界で(必ずしもアイヌのコタンとは限らないことを承前としても)、その表現がどのような印象や意味をもつのか、その語がどのような経歴をもって使われたのか、理解できない。しかし、多様性やインクルージョンというのは、そのような知らない知識や世界観、聞こえなかった声を聴くことにある。私たちが本当に尊重しなければならない多様性は、一見等価に見えるところではなく、実は等価ではないところ、自らが所有し使用しているレパートリーの外にある考えや感覚や知識である

 

そういう意味で、コンセプトは、非共通語、しかもその非共通語を普段から使っている人のことばの感覚で選んだコンセプトを使うべきだと思う。それでこそ、その非共通語を使わない人たちはその非共通語を使っている人に声や世界観に触れることができる。

(余談だが、これが非共通語を普段から使っていない人がやると、「文化の盗用」と言われかねないだろう。非共通語であるというキラキラした部分を使って、非共通語を使う世界観や声を奪い取っているわけであるから)

 

ここでいう「非共通語」は、いくつかのレベルがある。今回は「世界」が参加する日本語を共通語としないイベントであるため、別に日本語でもよい。または、多くの日本語話者にとっても身近に使わない言語であるアイヌ語でもよい。日本の土地に紐づけられていないものでもいい。とにかく、自分の知ることばへの翻訳を見て理解するのではなく、一度立ち止まって「どういう意味なんだろう」と考えさせるような表現や言語であるべきだと思う。そのことで、その言語文化に関する知識や関心や敬意が深まるのではないだろうか。

 

翻訳も、複数の解釈が生まれうる。まだあまり翻訳されていない言語によって表現されたものやその世界観の本質を探ろうと考えたり、各自がそれぞれのことばや世界観へ翻訳や解釈を試みてこそ、多様性に触れる、多様な声を聴く、多様性の推進、ないしは少数派のinclusionなのではないだろうか。