ALL iz thiik hai! 一社会言語学者のブログ

社会言語学&バイリンガリズム&南アジア系移民 研究を中心とした自分の思索の記録 ALL iz thiik hai とは、訳すと「ALL is オーケーだ」。かなり色々なものをかけたマニアックで深ーい表現。

「正しい」表記とは?「パーキスターン」と「パキスタン」をめぐって

先日、東大名誉教授の沼野充義氏(ロシア文学・世界文学)の、以下のようなツイートを見た。

 

 

 

 ロシア語や日本語を通じて「グルジア」という名称に親しんだ人たちには、英語読みの「ジョージア」にウッ、と拒否反応を示す人もいるかもしれない。というか、私はそうであるので、そう思っている。特に沼野氏ならば、英語を通じてではなく、これまでも、また今でも、英語ではなくロシア語などの他言語でその国の情報に接しているため、「ジョージア」は大いに違和感があるだろう。

 

 

「パーキスターン」と表記することの利点と正統性

 さて、タイトルにある「パーキスターン」と「パキスタン」の表記の問題について。

 (実は、「パーキスターン」を正しいと考えるたちが、「パキスタン」という名称を使っている人に対して、パキスタンについて抗議する権限がない、とSNS上で批判したことを受けている)

 私自身、日本語の原稿でこの国に言及する必要があったことが何度もあり、どうするか迷ったことがある。一時期は、「パーキスターン」と表記することの多い外大等(関東と関西、どちらの外大の研究者も「パーキスターン」と表記していたと思う)の先生方に合わせて、「パーキスターン」と書いたこともある。外大の先生のやり方に合わせることは、南アジア学の分野でより「正しい」とされているとやり方に従うこととほぼ同義になる。

 おそらく、外大では、日本の慣習である「パキスタン」ではなく、「パーキスターン」と「正式に」書くように指導されているのだろう。外大の先生という権威に「パーキスターン」が「正式」と言われれば、それは「正しい」と思うだろう。

 

 「パーキスターン」と書くことは、おそらく、ウルドゥー語の長母音表記は、日本語でも長母音で表記しよう、という考え方に基づいているのかと思われる。日本語でもウルドゥー語でも、短母音・長母音をそれぞれ書き分けられるのだから、転写する際に一致させよう、と。このやり方を採用する利点はいくつかあるだろう。例えば、長母音と短母音で意味の異なるウルドゥー語の単語があったときに、カタカナ表記でも弁別できる。また、ウルドゥー語学習の観点からは、カタカナでこう書いてあるから、ウルドゥー語ではこう綴る、と記憶の定着に役立つ。そして、場合によっては、より現地読みに近い発音が実現できるかもしれない。

 (なお、ここでいう「転写」とは、ある言語の文字の綴りを、ある一貫した規則に従って別な言語の文字に綴ることである。発音を忠実に書きとることではない)

 

長母音・短母音を書き分けた方が、発音が近くて「より正しい」のか?

 ここで、「場合によっては」、と書いた。多くの人が、カタカナで長母音で書いてあれば、ウルドゥー語での長母音に近くなるので、発音として「正しい」ものに近づく、と考えるだろう。しかし、日本語とウルドゥー語の音節音韻構造が異なるので、そう単純にはいえない。本当は、日本語とウルドゥー語が、どのように音節音韻的に異なるのか、研究成果があればそれを参照したいのだが、過去に探したときに見つけられなかった。そのため、ここでは理論上の話と私の内省からの説明になる。

 まず、大きく分けると、日本語はモーラ言語で、ウルドゥー語は音節言語と言われる。モーラは、母音の物理的な長さを反映せず、別次元の単位である。そのことから、ウルドゥー語(およびその周辺の言語)母語話者が、日本語の短母音と長母音を聞き分けることは、難しい。ウルドゥー語で長母音・短母音が書き分けられる在日パキスタン人も、他の外国語の母語話者と同様、日本語では長母音・短母音が書き分けられないことはよくある。私は学部生のときのレポートで、「おおかやま」、「おおおかやま」、「おおおおかやま」を聞き分けられるか、何人かの日本語・外国語母語話者の学生に聞いてもらった。日本語母語話者は全員ほぼ満点だった。一方、高度な日本語運用能力をもつ留学生でも、結果は日本語母語話者とは大きくかけ離れてボロボロだった。(もちろん、私の発音のしかたの問題もあるだろうが、アクセント等もモーラの数の解釈につながっていると考えられる)

 日本語母語話者が、ウルドゥー語の短母音と長母音を聞き分けることが、どのくらい可能かどうかは、私にはわからない。ただ、私の高くないウルドゥー語能力では、ところどころ区別しづらいことが多いのはしっている。例えば、「アッラー」や、属格後置詞「kaa」の長母音aaは、短く聞こえることがとても多い。

 何が言いたいかというと、ウルドゥー語の長母音・短母音と、日本語の長母音・短母音は、それぞれ同じように区切れない、ということだ。なので、転写システムとしていて合致していても、音声レベルでは同じではない。

 (なお、「モーラ言語」とか「音節言語」とか、完全に相容れないシステムを作っているのではなく、「モーラ言語」と呼ばれる日本語にも、音節が鍵になってくる現象もあるということが、研究からわかっている―例えば窪園(1998)参照)

 

ちょっと脱線―音声音韻とバイリンガリズム

 私の研究に協力してくださっていた日本語・ウルドゥー語バイリンガルの子どもたちがどのように発音していたのかについて、少し書いておきたい。一部の話は、Yamashita (2015)に既に発表している。

 その子どもたちは、両親ともパキスタン人のご家庭だったのだが、日本語で話しているときは、兄弟姉妹の名前は、日本語のモーラおよびピッチ構造と一致していた。一方で、ウルドゥー語で話しているときは、ウルドゥー語の音韻構造および音節アクセント構造と一致していた(ように少なくとも私には聞こえた)。名前にあるウルドゥー語の長母音の多くは、日本語では短母音で発音されていた。ただし、全ての名前で長母音が短母音になったわけではない。ここから推測されるには、やはり音声音韻環境により、「長く聞こえる音」と「短く聞こえる音」がまちまちで、彼らなりに気に入った形で呼んでいるのだろう。いや、もしかしたら保育園や学校で日本語母語話者にそう呼ばれたからなのかもしれないが。

 また、子どもたちは、時々日本語で話しながら日本語の音韻構造で「アラパーカーだよ」と言っていた。主に、「誓ってうそじゃない」というような文脈で使われていたが、何人かのウルドゥー語の話者には「どういう意味なのかわからない」と言われた。(ご存知の方がいらしたら、教えてください)。これは、おそらく「Allah pak」ないし「Allah pakka」になる可能性が高いのだが、アッラーがやはり短い母音の「アラ」になっている。なお、ここでは促音がなくなったり(「アラ」)、長母音になったり(「アッラー」)している。促音の扱いはゆれがあった。

 日本に暮らす多くのアラビア文字圏の名前も、長母音と短母音がどの程度日本語表記に反映されているかは、揺れがある。そもそも、「イスラム」か「イスラーム」かだって揺れている。日本人の関連の研究者は、書くときは「イスラーム」とすることが多い。「イスラム」や「イスラーム」ならまだしも、そこに「教徒」がついて長くなったとき、音声的に「イスラム教徒」ではなく「イスラーム教徒」と、しっかり長母音で発音しているかは、疑問の余地があると思う。

 

「パーキスターン」表記の行く末-社会的要因

 究極的にいえば、ことばの恣意性を念頭におく言語学からしたら、「正しい」「正しくない」なんていう議論はそもそもしないので、「パキスタン」でも「パーキスターン」でもどちらでもいい、ということになるだろう。しかし、民族・言語・文化の尊重といった社会的要因が入るような、人名や地名の表記の「正しさ」に関する論争は、それなりに重要な話であり、しかも一筋縄ではいかない。

 Pakistanを「パーキスターン」と呼ぶことを「正しい」とする見方は、特に外大などで、南アジアやウルドゥー語を専門的に学んだ(日本の)人たちが主張し、代々受け継いでいるものである。一方で、外大以外でパキスタンというものと密な接触がある「一般人」(例えば、ビジネス上の長い付き合いや、家族としての付き合い、パキスタンでの滞在、など)は、必ずしも外大等で南アジア学やウルドゥー語の専門知識を身につける機会があったわけではない。そのため、慣用的な「パキスタン」を用いている。そうした人々の中には、外大の学部生よりも、パキスタンやウルドゥー語へのコミットメントが深い人もいる。

 「パーキスターン」という表記(ならびに、他の長母音・短母音の厳密な転写)を推進するデメリットのひとつは、ウルドゥー語の正書法を学ぶ機会のなかった人を排除する可能性があることである。それは、ウルドゥー語の正書法を学び、しっかり覚え、それを忘れない人たちの方を常に権威づけることになる。外大以外でのパキスタンとの付き合いがある人たちは、正書法を学べない。そのため、彼らの声は「専門的でない」「正しくない」と排除されることになる。これまでも、こうした人たちが何かウルドゥー語や他の現地語をカタカナ表記をしたときに「その表記は正しくない」と指摘され、修正していた例を見てきた。もちろん、ウルドゥー語の表記を覚えるためには役に立つ指摘であるが、出版物や学術論文以外で、そこまでの厳密さを求めることは必要だろうか。こういわれる市井の人は、表記が違うと権威から怒られるんじゃないかと気を使いながら、SNS投稿していたりする。

 「パキスタン」という表記は、慣用的に使われているので「正しい」という意見もあるだろう。また、日本語表記でウルドゥー語の表記ではないからいいんじゃないか、という意見があるだろう。パキスタン大使館も外務省も、地図表記も、広辞苑も、「パーキスターン」とは表記していないから、「パキスタン」表記も正しい、と。これは、外務省や大使館や地理院や広辞苑などに権威を見る判断のしかたで、外大を権威と見て「パーキスターン」とする判断と、参照する団体が異なるだけで、「正しい」表記を特定の権威の決めたものとするという仕組みは変わらない。

 一方で、先ほど書かず、あえてここで挙げたかった「パーキスターン」表記の重要な利点が1つある。ウルドゥー語の地位に関する働きかけ(=尊重)、という社会的な要因である。外大側は、おそらくこれを念頭においている。表面的な音や英語読みで完結してほしくない、ウルドゥー語の表記を尊重し、そこからウルドゥー語という言語をしっかり尊重してほしい、というメッセージなのではないかと思う。だからこそ、懸命な人はいちいち指摘してきたのだと思う。

 

結局どっち…

 このように、ある語をどのように表記するか、ということは、政治的・思想的判断が伴い、どのグループに所属したいかという表明と、密接に関わっている。または、冒頭の沼野氏がそうであるんじゃないかと私が勝手に解釈したように、これまでのなじみの愛着のある表記、という感情的な側面が伴うこともある。

 (これらは、社会言語学の基本的な考え方である。どのような表記が正しいか、という問題は、社会言語学だけでなく、言語人類学や言語社会学でも論じうる問題である。)

 「パーキスターン」派のみなさんが、外務省等に働きかけて、「パーキスターン」を日本語における正式な名称・表記にすることは可能なのではないかと思う。それだけの権威はあるし、根拠や理由を集めて、しっかりそのメリットを主張することもできるだろう。

 私は、無精もあって、今のところは「パーキスターン」と表記し続けるモチベーションがあまりない。基本的には慣用的な「パキスタン」を使い続ける。ツイッター上では字数が問題になる。論文で書くときは、論文内で一回でも混ぜたら、それをいちいち直したりする必要が出てくる。まあ、南アジア学会でまた発表することがあれば、そこではしれっと「パーキスターン」って書きそうな気もする。