ALL iz thiik hai! 一社会言語学者のブログ

社会言語学&バイリンガリズム&南アジア系移民 研究を中心とした自分の思索の記録 ALL iz thiik hai とは、訳すと「ALL is オーケーだ」。かなり色々なものをかけたマニアックで深ーい表現。

映画『海難1890 (125 Years Memory / Ertuğrul 1890)』(2015) を視聴して

トルコ航空機内で『海難1890』を見た。あえて「トルコ航空機内」というのは、トルコ航空機は、イランから日本人を避難させた航空機として映画の後半で登場するからだ。

 

映画のあらすじは、Wikipediaの日本語版等にも詳しく載っている。第一部は、オスマン帝国から日本の天皇に謁見に来た親善使節団を乗せたエルトゥールル号が、台風で和歌山県沖で座礁し、9割ほどの死者・行方不明者を出したが、和歌山県の地元の貧しい漁民ほか日本国民が献身的に生存者をケアした、という美談。親子ともにエリートの機関大尉ムスタファと、トルコの貧しい村出身のボイラー工員べキール、貧しい村で非営利医療を続ける医師の中村と、漁師だった許婚を人命救助で喪った、中村の助手ハルの4人を中心に、遭難までと遭難後を描く。社会的立場の異なる人々がそれぞれ同じ思いで献身的に動く姿は、美しく紡がれている。

 

エルトゥールル号の美談は、一定数のトルコの人たちに知られていて、日本ではあまり知られなかったが、トルコに渡航した人や、東京ジャーミイ、ケバブ、ワールドカップ等々、トルコの話は昔よりも知られるようになったとは思う。私がトルコにツアーで旅行したときも、ガイドさんはエルトゥールル号の美談が小さい頃から心にあって、友好都市だった和歌山県串本町にも行ったと述べていた。

 

日土友好を意図した映画だから、さぞかしトルコの愛国主義がぷんぷんしたり、トルコ文化とか(トルコ観光庁もお金を出したとどこかで見た)、美しい日本とか、いろいろ出てくるのかと思ったら、そうでもなかった。日本人スタッフが基本的に制作しているので、芸者遊びも出てくる人たちもフェイクっぽくない。工員たちはサズを出して歌(吟遊詩人みたいな即興詩?)の勝負をするところは、『タイタニック』で言えば、ジャックとローズが下層の乗船客らと共にアイリッシュ系みたいなダンスや即興生バンドと共に船の底の方で踊るのをちょっと思い出させる。後は、初めてレスリングの試合というのを見た。サズとレスリングのシーンが、一番面白かった。

 

125 Years Memoryだから、エルトゥールル号の話と、近年の話が出てくるのかと思ったら、第2部では、1995年のイラン・イラク戦争勃発時のトルコの美談が持ち出されたのだった。トルコ人(大使館職員)が日本人と聞いてふっと顔をほころばせ、トルコのお守りをくれる。

 

私がトルコに行った時(2010年3月)も、素朴な町では、とても温厚な笑顔で「メルハバ、メルハバ」と手を振ってくれた。ある町では、夜中なのに厨房の人が「いいねえ」みたいなまどろんだ笑顔で私たちを見ていた。あちこちで連れていかれたお土産屋さんも、ある程度日本語での上手なセールストークが終わると、みんな和やかに楽しくおしゃべりをした。急にお守りをくれるなんて、映画の中だけの話みたいだけど、こういうことが実際にありえてもおかしくないくらい、フレンドリーに接してくれたトルコ人は多かった。

 

テヘランの空港のシーンは(え、こんなに簡単にみんな説得されたの?と思ったが、全員とまでいわなくても、遠い異国からの人のために貢献しようという心の広い人たちは一定数いたことは想像に難くない)、そんな光景を少し思い出させてくれた。

 

美談すぎるけど、危険な任務に志願しようとしたトルコ人パイロットたち、トルコ大統領の「私は自国民を信じる」もよかったと思った。ナショナルイデオロギーとして批判しがちになるが、ナショナルイデオロギー以前に、人に対する信頼、本当に良いことは何か、という倫理的規範(イスラームなど)がしっかりしているからにも思える。もっと強い国から後ろ指指されたくないため、または自国のプライドのため、多額のお金を出していて、ナショナリズムなき倫理的規範が存在しない国よりは、かっこいい。

 

日本人観光客が激減し、(おそらく日本人にもある程度幻滅し)、(殺人事件まで起こっちゃったし)今日のトルコでは、私が体験したような和やかさは望めるのだろうか。悲観的になりがちだが、行きも帰りも、親切でフレンドリーな在日トルコ人乗客が、(悪い意味ではなく)ゲートや機内で日本人に声をかけていた。今日の日本社会の慣習としては、日本人といわれる人の多くは、日本でも外国でも、外国人に対して、また特に日本人に対しても、冷たく厳しい。そのような中で、親切な在日トルコ人の気持ちの余裕を見習いたい。

菓子「ひよこ」の英訳と「私のアヒル」

成田空港にあった「ひよこ」の広告

 国際空港のゲートから税関までの道のりは、お店もなく、広告が目につきやすい場所だ。日本に帰国するたびに、ここの広告を見るのを楽しみにしている。

 日本の観光協会や、娯楽施設の広告、通信業界の広告、菓子業の広告など、いろいろなものが見られる。言語も、英語だったり、日本語だったり、最近では中国語もあったように思う。

 今回は、お決まりディズニーリゾートやNTTドコモのほかに、上野動物園(都立)の広告を新しく確認することができた。

 一番興味深かったのは、入国審査に入るエスカレーターのところにあった菓子「ひよこ」の広告である。基本的にすべてが英語で書かれているのだが、「ひよこ」の説明として、以下のように書かれていた。

 

'the famous confection loved throughout Japan for its pretty baby chick shape'

 

どこが'quaint English'なのか

 母語話者ではないが、ひよこの説明に、一瞬うーんと思った。

 ネットで検索したら、I'll think of something later: Anglo-Russo-Japanese allianceという2010年付の個人ブログには、ひよこ自体はほめながらも、この表現を"quaint English"と表現していた。"quaint"は、「古風」「趣のある」「変」という肯定的・否定的な意味があるが、ここの文脈からすれば、消極的に、失礼にならないように「変だ」と言っているようにとれる。

  同記事には、この英語の表現はひよこのウェブサイトにあったそうだ。しかし、私がサイト内検索も含めて確認したところ、見当たらなかった。(その後消されたのだろうか?)

 第一のquaintポイントは、confectionという語と、その後ろにたくさんの修飾節がついていることだと思われる。'for its pretty baby chick shape'で6語、'loved throughout Japan'で3語、"the famous"で2語。英作文(和文英訳)の添削していると、こういう表現によく出くわすが、英語圏ではここまで修飾節の重い表現はあまり見ない。受験ではOKだが、なぜかネイティブに直されてしまう文の好例である。英語圏なら、シンプルに"Japan's (all-time) favourite confection"としそうだ。英語圏でも、複雑な話でなければ、語の前で修飾する方が好まれているからだ。

 第二のquaintポイントは、語のコロケーション(どういう語と共に使われやすいか)にある。(次節)

 

"Pretty baby chick"という文字列に関して

 この記事を書いた人が同じところに着目したかどうかはわからないが、pretty、baby、chick、は、どれも性的対象の女性を表現するのに使われる語句である。元の意味はそれぞれ「きれいな」「赤ちゃんの」「ひよこ」で、そのようにして使われることが多いが、babyやchickは特にそうでないときもある。

 

 "pretty baby chick"や"baby chick"はひよこの画像が出てきた。例えば、グーグル画像検索で、"pretty baby"と入力すると、どうやらそのようなタイトルの映画があったのか、女性(一部半裸)の画像がヒットする。"pretty chick"も、人間の女性の写真ばかりが出てくる。"chick"自体がひよこを意味するし、それだけで意味できるはずだが、"baby chick(赤ちゃんひよこ)"というようにbabyをつけて二重に小ささを表現しなければ、動物のひよこにならないのだろうか。"pretty chick"や"cute chick"にできないのは、悩ましいことだろう。

 

(蛇足)イングランド中部の呼称としての「私のアヒル」

 ちなみに、英語では、性的な意味でなくても、親しさを表した呼称として動物がよく使われる。私が住んでいた英国レスターシャー州では、よく「ミドック(my duckがなまったもの)」が使われていた。親しい人(配偶者、恋人、子ども)だけでなく、人によっては(特にタクシーとか駅員とか、労働者~中産階級の下のサービス業の人たち)見知らぬ人にも親しみを込めて使っていた。

 

 レスターシャー州の北西にあるダービシャー州の話題だが、こんな記事も見つけた。

www.derbytelegraph.co.uk

 

 この記事の通り、"Ey up, mi dock (Hey up, my duck)"で「やあ」を意味したし、発話の最後の"..., mi dock"は「~なんだよ」というニュアンスで使われていた。

 もちろん、方言だと思われているので、標準語&書き言葉&「品のある言葉遣い」を中心とする学校ではあまり使われなかった。

小山亘『コミュニケーション論のまなざし』(2012年、三元社)

 

コミュニケーション論のまなざし (シリーズ「知のまなざし」)

コミュニケーション論のまなざし (シリーズ「知のまなざし」)

 

 

出版社が提供している目次(ここ → コミュニケーション論のまなざし )が詳しくてくらくらする方に、どのような内容の本であるかを、大変おおざっぱにまとめると、次の通りになる。

 

続きを読む

『在日パキスタン人児童の多言語使用』を出版してよかったこと

先週後半は、拙著『在日パキスタン人児童の多言語使用』を読んでくださった、私の存じ上げない非研究者の方と、オンライン、オフラインでお話しできました。

 

お二人とも、それぞれ、図書館で借りて読んでいただいたそうで、嬉しかったです。

 

本を出版してよかったことは、その先の対話が生まれることです。

読み手だったときは、情報を伝えることが使命だと思っていましたが、書き手としては、それよりも、その反応がずっと面白いです。

 

今回の出版は、学術書出版助成を受けていることもあり、学術書出版を中心にしている出版社のアドヴァイスにおまかせし、元の博士論文に近い形で出版しています。一般向けに書きなおしたいと申し上げたら、もっと偉くなってから書けばいいとの趣旨のアドヴァイスを頂きました。とても残念でしたが、研究者のキャリア形成の観点からは、それは大変的確なアドヴァイスでした。

 

研究的には、記述に終わっているところ、肝心の構想のところの論「言語を切り替えるコードスイッチングと、言語内で話し方を変えるスタイルシフトを同列に扱って分析してみてはどうか」がしっかり構築されていないところが、まだまだ改善の余地がある、と思います。本書にも書いたような気がしますが。

 

ほか、何人かに言っていただいたことは、特にエピローグ等、在日パキスタン人の子供たちの生活世界や進んでいく人生が垣間見えるところがとても感慨深かったようです。私としても、フィールドワークはたくさんの小さな感激がいっぱいですが、それらは研究には書けないので、博士論文を書きながら、ドキュメンタリー作家になりたかったな、と思いました。

 

当該モスクの方々には献本が「難しくてわからなかった」と言われ、本当に心苦しかったです。あの本、わからなくて当然です。少し勉強してダブルアクセルとトリプルアクセルの見分けがつくようになっても、高得点のトリプルアクセルと低得点のトリプルアクセルは、勉強しないと見分けられないのと一緒だと思います。

献本させていただいているのは、お礼のしるしなので、「これくらい読んでわかるでしょう」「わかってください」という意味じゃないんです。本当にごめんなさい。

 

研究は趣味ではない

先日、会社勤めの友人と久々にランチした。

これまで感情や意見のすれ違いがあったこともあったけど、基本的には互いを尊重してこられた、とても親しい友人だ。

研究世界にいると趣味が続けづらいといったら、まあそうだよね、と言われ、

「でも研究は趣味みたいなものでしょ」

と言われた。

 

いい返事ができなくて、その場で、「まあそうかもね」と言った。

でも、ちょっと失敗したなとは思った。

大変だけど、ちょっと努力するし、動機があって行う活動で、長く続ける活動で、経済的な見返りのためにやっているわけではなく、時に自腹を切っているという点では、確かに「趣味」に近いと言えなくもない。

しかし、同様に、「趣味」と言ってはいけないのだ。

今回は、なぜ「趣味」と言ってはならないか、非職業的研究者に対してではなく、どちらかといえば自分を含めた職業的研究者に対する自戒の気持ちをこめて、書きこぼしておく。 

 

続きを読む

ジム・カミンズ&中島和子『言語マイノリティを支える教育』(2011年、慶應義塾大学出版会)

 バイリンガリズム、言語教育、相互依存仮説。

 聞いたことあるけど、一体どこの何を読めば詳しくわかるのか。

 カミンズの古い論文を読んでいけばいいのか?でもカミンズは寡作だ。

 私を含め、そんな困っている人のために、中島和子氏がエネルギーを注ぎ込んで翻訳・執筆したのが以下の著書だろう。

 

www.keio-up.co.jp

 

続きを読む

宝塚歌劇『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』 星組@東京

  大変幸運なことに、『恋する輪廻オーム・シャンティー・オーム』の宝塚版を見ることができた。しかも、私の初・宝塚鑑賞となった。

 

f:id:rikayam111:20170118142805p:plain

 (ポスター | 星組公演 『オーム・シャンティ・オーム -恋する輪廻-』 | 宝塚歌劇公式ホームページ

 

f:id:rikayam111:20170121160059p:plain

ポップで「マサ―ラー」な舞台。そして『オーム・シャンティ―・オーム』のロゴ。

ほら、ミラーボールも!

想定通り。わくわく♪

 

続きを読む

映画『ミスター&ミセスアイヤル Mr. and Mrs. Iyer』(2002)

 タミル人バラモン(ヒンドゥー教徒上位カースト)(かつ物理学修士)のミーヌが、山奥の辺境から、乳児を連れて一人で夫+夫親族の待つコルカタに戻る間に、勃発した地域的な宗教対立抗争に巻き込まれる。父の知人の知人である野生動物写真家"ラージャー"がこの旅路に同行していて、ところどころで助けられていたが、その人がムスリムであることを途中で知る。ショックを受け、一瞬侮蔑しながらも、勃発した厳戒態勢の中、命の危うい彼をかばい、自分の夫Mr. Iyerであるとテロリストおよび会う人会う人に述べる。後半では、二人の間に淡い愛情が育つが、(もちろん)終着地のコルカタ駅で、別れる。

f:id:rikayam111:20170120185856p:plain

(写真:Mr. and Mrs. Iyer - Wikipedia

 

 この映画を2017年に見てショッキングなのは、まだSNSの発達していない2002年から15年経った今でも、宗教対立が勃発しやすいインドの情勢は大きく変化していないこと。2015年の終わりから2016年の初めにかけてにあった、牛肉を食べたためムスリムを村で暴行して死亡させ、そしてそれで各地に飛び火する宗教ヘイト、は記憶に新しい。

 

続きを読む

日系カナダ人日英コードスイッチング研究のまとめ(作業中)

 日英コードスイッチングは、社会言語学の教科書でよく言及されるが、ほんの短い紹介で終わる。そのため、どのように研究され、どのようなことがわかったのか、あまりよく知らない人も多い。

 Nishimura(1951-2004)はハワイでの交通事故で亡くなったし、コードスイッチングの研究も盛んではないし、学術的な潮流としても時代遅れとなり、この興味深い研究データは、あまり省みられることがない。

 ここで少し、その研究に関して、詳細なメモをとっておくことにする。

 主に、次の二つからの情報をまとめている。

Nishimura, Miwa (1995) Varietal conditioning in Japanese/English
Code-switching. Language Sciences, Vol. 17. No. 2, pp. 123-145,

Nishimura, Miwa (1998) Japanese/English Code-switching: Syntax and Pragmatics. Peter Lang.  

続きを読む