ALL iz thiik hai! 一社会言語学者のブログ

社会言語学&バイリンガリズム&南アジア系移民 研究を中心とした自分の思索の記録 ALL iz thiik hai とは、訳すと「ALL is オーケーだ」。かなり色々なものをかけたマニアックで深ーい表現。

研究者に「残留孤児のこども」と呼ばれて

 大学1年の春学期、在日コリアンに関する授業を履修した。教員(ここではA先生、と呼ぼう―当時教授だった)はとても意欲的で、学生もその熱に引き込まれていた。教育にも、研究にも熱心なタイプだ。実はA先生は、昔々、在外研究中に父と出会っており、知り合いだった。A先生と父に共通項はあまりなかったが、その後10数年、互いに年賀状を交わしていた。そして、A先生から父に長年、研究成果の書籍や論集が届いていた。

 

 
 A先生はとても熱心で、非常勤でいらしているにも関わらず、ゲストスピーカーを招いた。高史明さんという、在日コリアンの作家の方だった(注*ヘイトスピーチのツイッターの研究をした高史明さんは、同姓同名の別人)。イベントの後の懇談会は、10人くらいが集まったんだったか。A先生は、懇談会に集まった一人一人を紹介した。コリア系の学生もいたからだ。私の番になった。私を紹介するとき、A先生は言った。

 

「この人はね、残留孤児のこどもなんですよ」

 

 高さんは、笑顔ながら「大変なご苦労をされたのでしょう」という共感の表情をされた。私は、とっさのことでびっくりし、そのままに流されてしまった。私は、「残留孤児の子ども」ではない。

 会の途中、お酒を飲んでリラックスしているA先生に、私が残留孤児のこどもではないことを伝えた。ビールを飲みながらA先生は、ちょっとめんどうくさそうな表情をして、次のように答えた。

 

「いやあ、よくわかってるよ、でも他にわかりやすい説明がなかったんだ」

 

頭が真っ白になった。「わかりやすい説明」。なぜ私のことについて、「わかりやすい説明」をしなければならないのだろうか。その「わかりやすい説明」のために、大きな嘘をついたことになったのに。

 

「残留孤児のこども」というのは、あまりにも真実からかけはなれている。私や私の家族のことを何も説明していないも同然である。「説明」どころか、大嘘、誇張である。どうして、私がいつも言うように、シンプルに、「お父さんが中国生まれの日中のハーフなんです」または「お父さんが中国生まれでおばあさんだっけ?が中国の方なんです」とか、言わなかったのだろうか。
戦後生まれの父は、生まれてからずっと両親と離れることがなかった。日中国交正常化の少し前、十代で兄弟や両親と共に同じ貨物船で日本にわたり、帰国者受け入れセンターに入り、その後そこを出て、都内で家族一緒に暮らしていた。結婚してもすぐ隣に両親が暮らしていたので、両親は死ぬまで離れることがなかった、と言ってもいいくらいである。いつから、肉親と分かれて他の家庭で育ち、肉親捜しをして、ようやく肉親に出会えて、しかし言語やアイデンティティの面で葛藤を抱えて…みたいな戦争のかわいそうな被害者とされている「残留孤児」にされたのだろうか。
A先生があのとき、謝罪のことばを述べたかどうかはもう忘れた。でも、少なくとも、反省しているようには見えなかった。授業であれだけ口酸っぱく説いていた、マイノリティへの理解や誠意は見られなかった。まだ訂正の余地があると思って、懇談会中に、勇気を出して私は主張したのに、訂正はしなかった。私は、単に学年と名前以外にも、説明されるべき何かをもっている存在であると同時に、「難しい」から間違った説明のままでもいい存在らしい。

 

 家に帰って、父に「残留孤児のこども」と言われたことを伝えた。父がどういう感情表現をしたか忘れたが、どう考えてもありえない、と否定した。父も、怒っていた。
A先生は、授業で「マイノリティへの還元」を熱く語っていた。自分の研究成果は必ず研究協力者(フィールドの「調査対象」の人々)に送るんだ、と誇らしく語っていた。その話をすると、父は初めて、A先生が研究をわざわざ送ってくるのは、そういう「マイノリティ」扱いのためなのだ、と気が付いた。父は、A先生の研究に関しては、興味関心がほとんどなく、なぜ送ってくるのだろうとまで思っていたそうである。A先生は研究していた「在日コリアン」と父を重ね合わせて見ていた一方、父はおそらく自分の境遇をA先生が研究していた「在日コリアン」と重ねようと思うことはほとんどなかったのだと思う。私には理由はわからなかったが、父は憤慨していた。

 

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 その後、夏休みが終わり、成績が出た。この科目における私の成績評価は「良」だった。何が悪かったのかはしらない。父は、半分笑いながら、知り合いだから「優」をくれるべきだった、と何度かいった。私は、成績は別に自分の能力だから関係ない、と父に言ったが、それでも父はそう主張していた。

 

 私はA先生の専門である在日コリアンの問題を、きちんと理解できなかったのだろうか。在日コリアンにまつわることを、正しく理解(理解なんてものがあるのかどうかは今となってはわからないが)ができていないんだ、しかも、その科目で「優」をとった人が一定数いるのに…と自信をなくした。自分も同じようにマイノリティだから、何か共通するものがあったのかもしれないと思ったが、私の感覚は大いなる誤解で、全くぶしつけな理解だったのだと、自分の感覚にも自信をなくした。

 

 私は自分なりに考えてレポートを作成したつもりだった。私はどのようなことを書いたかももう忘れたが、自分の経験や自分の想像を交えて、少なくともあまりお仕着せ通りのことを書かなかったのは覚えている。何か、もっと適切な解釈や、「正解」があったのだろうか。もちろん、あの頃は日本語でのレポートを書くことでさえ結構苦労していたので、課題が要求する水準に満たなかったという可能性は大いにある。一方で、自分のことを「残留孤児のこども」と平気で言ってしまえる人の評価である、ということに、葛藤を感じた。特に、A先生の授業での論調とは異なる意見を述べていた。しかしそれでも、その分野の権威ある研究者である。頭の中は混乱し、怒りというか悲しみというか、やりきれない気持ちになった。ただ、大学1年だったので、きっと自分の理解や感覚に何か間違っている点があったのだ、と考えることにした。

 

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そして年末。

 父がわざわざ、それまで10年以上続けていたA先生との年賀状の交換を、その年からやめた、と私に言ってきた。その理由は、A先生が私に「優」をくれなかったから、と言っていた。

それ以前(例えば小学校)にも、以後にも、父が、私の成績評価について、関心を持ったり、感情を表したり、「優であるべきだ」とか言ったことは、一度もなかったにも関わらず。