ALL iz thiik hai! 一社会言語学者のブログ

社会言語学&バイリンガリズム&南アジア系移民 研究を中心とした自分の思索の記録 ALL iz thiik hai とは、訳すと「ALL is オーケーだ」。かなり色々なものをかけたマニアックで深ーい表現。

「恋愛工学」で思いだしたこと―「自動化できる関係が理想の人間関係」と語った理系男性A(元カレ)

 いつも話題に遅れているのだが、「恋愛工学」という概念をしった。

 

 「恋愛工学」とは、物理学PhDを持つ外資系金融マンがメルマガで公開している、(男性向けの)恋愛(=ナンパ)メソッドらしい。

 

 人文社会系学問をやる身としては、「婚学」を教える大学教員(理系)に続き、「科学的知識」の曲解というか、人間の生み出すイデアの世界を理解していない「理系男性」の見る世界の恋愛論が生まれたのだな、と思った。試験管で起こることと、実際の環境変数のもと起こることは、同じとは限らない。ただ、「またか」というよりは、外資系金融マンとか、コンサルとか、理数系PhDとか、またそういう「勝ち組」のせいで自分たちは恋活婚活で苦戦していると思う人たちが、地方大学の理系大学教員と学生よりは、私にとっては身近だったので、関心をもった。

 

 私はかの昔、工学系院生の男性と付き合っていた。彼は工学系の中でも自称他称で「コミュニケーション能力に長けている」人で、同期や指導教員から信頼され多くを期待される優等生だった。多くの同期と違って、恋愛経験もないわけではないので、経験が少なくても、異性に対して自信があった。数学や工学が大好きなのが変に思われるかもしれないけど、(オタクではなく)飲み会やドライブなど普通のことも好きだし、というのが彼のアイデンティティだった。

 

 

 そんな彼と付き合い始めるか始めないかくらいのとき、それぞれの専攻分野に関連のある一般向け書籍を交換する、ということをした。彼は、工学系ブルーバックスで彼の分野に近い本を貸してくれた。(私も何か言語系の本を貸したはずなのだが、何を貸したかは忘れた―東照二の『社会言語学入門』だったかもしれない。)そこには、ちらっと、「フィードバックと修正を繰り返し、特に手を加えなくても問題が起こらないレベルに自動化できるようになるのがよい人間関係だ」といった趣旨のことが書いてあった。がち工学系の本から、何らかの思想・文化を拾おうと思いながら読んでいた私は、そこが印象に残った。そして、彼もそう考えているのか、聞いてみた。

 

 彼の答えは、そうだよ、ということだった。私は率直に、人間関係はそう自動化できないし、自動化しないフィードバックや修正の過程にこそ醍醐味があるのではないか、と述べた。彼は持ち前のさわやかな笑顔で「そうかぁ~、そうなのかなぁ~。文系の人はそう考えるんだぁ~」で、特に問題にならず、そのまま付き合うこととなった。

 

 その時の忘れえないカルチャーショックは心にずっとあった。結果的に(その数年後)別れたのはもちろん、彼の予測や期待通りに動かない私が彼の手にかかって、彼にとっては自動化が程遠い関係だったのが面倒になったからだろう。一方私は、そういう手がかかるのが嫌なんじゃないかということを察知して、無意識に手がかかるようにすることで、彼の愛情を試していたのかもしれない。

 

 彼とは、認識のずれを話し合うこともなかった。彼はそういう認識のずれを認知して話し合うということはするタイプではなかった。問題があったら、とにかくやり過ごすというタイプだった。そんなところが、きちんと頭で考えて話し合う私と合わなかった。きちんと話をしようとしても、暖簾に腕押しだった。だから、まあ、別れたことに後悔はないし、彼はもっと彼にとって心地よい、「自動化できる」関係が見つかればいいと思う。そもそも、人間完全に自動化なんてできないし、そういう場合、知らず知らずにボタンの掛け違いがあったり、互いにとって利害が問題にならないくらいそれぞれ孤立している浅い付き合いで平行線の関係かもしれないから、きちんと話し合うのが大事だと思う、私の人間関係観がどこか歪んでいるだけなのかもしれない。

 

 「恋愛工学」を信奉する人に、私の人間関係観は、きっと理解されないし、理解されなくていいと思う。私は彼らの恋愛対象にならないから、理解するモチベーションもないし、私も彼らに私の人間関係観の方がより幸せだとかよりポリティカリーコレクトだとか、言うモチベーションもない。(「恋愛工学」を信奉する集団の仕組みを観察して分析するのが面白いしね)そして、恋愛に悩む人に有効なアドヴァイスなんて、ほぼない。私はおこがましくアドヴァイスとかしてきたが、どこか簡略化・抽象化されたりして、誤解して伝わってしまうし(例えば、「○○が大事」というと、本当に素直にそれを重要条件にしてしまったりする)、一番耳の痛いところはスルーされるし(課題として見えないし、取り組みづらいからそこが放置されているわけでーそして、容易に変えられることでもないんだと思う)、そもそも私のやり方に沿ったって、本人にとって本当にそれで幸せで納得がいくかは、別問題なのだ。

 

 私が一番感銘を受けた「恋愛論」は、深澤真紀がいつかどこかで書いていた、結局恋愛なんて(偏った)趣味で、それだからこそ他人からどんなに不幸でへんちくりんに見えるものを選んでもいいということ。だから、「こういうことするとランク上の男性に出会えます」「こういうやり方だとランク上の女性に出会えます」といわれるいろいろなものを実践して、うまくいって満足したり、うまくいって不満足だったり、うまくいかずに満足だったり、うまくいかずに不満足だったり、で人生いいんだと思う。恋愛工学だって、決して私は女性蔑視的な言動や考え方を肯定する気はないし、病んだ依存関係を作る可能性に対しては嫌な気分だが、双方の合意で生じていることに対して、口出ししたり、私の人生やその価値観を主張して相手の考え方を否定する気も起きない。

 

 でも、結婚には大きな精神的社会的経済的コミットメントがかかわるので、婚活に悩む人には、やっぱり心配になって口を出したくなってしまう。