ALL iz thiik hai! 一社会言語学者のブログ

社会言語学&バイリンガリズム&南アジア系移民 研究を中心とした自分の思索の記録 ALL iz thiik hai とは、訳すと「ALL is オーケーだ」。かなり色々なものをかけたマニアックで深ーい表現。

「あたしおかあさんだから」問題ー「おかあさん」の「感動ポルノ化」と「声」の主体の略奪

昨日あっという間にTwitter上でトレンド入りし、あっという間にトレンドのリストから消えた、「あたしおかあさんだから」というのぶみ氏の新曲の問題。「女性蔑視」が歌詞レベルだけでなく、作詞や歌が男性によるものだというレベルでも、女性を蔑視ないし軽視する姿勢が見られて、不愉快だった。

 

 

女性は仕事ができない、らしい

私自身は、母になったとはいえまだ日が浅いし、自分がいわゆる世間が理想している献身的な母親とは自覚していない。そのため、多くが不快に思っている「母としての犠牲」はもう、なんかお決まりだなあと思い、多くの人が十分にそのあたりを古臭いとか、押し付けだとか批判しているので、そこについては特にもう全力同意としか言わない。でも、そこよりも深刻な問題が今回露呈したように思う。

 

育児中の母親をいろいろとばかにしたところよりは、今日付けの千田有紀氏の記事(

元うたのお兄さんの「あたしおかあさんだから」が炎上するワケ(千田有紀) - 個人 - Yahoo!ニュース

と同じで、この「おかあさん」が「立派に働けるって強がっていた」とされたところが腹が立つ。

 

この歌詞から浮かび上がるのは、仕事は女性が強がってするもの、つまり本来女性に向いていないもの、そして女性は仕事ができていない、というメッセージである。全くひどい話だ。ここだけでお上から女性蔑視的として放送禁止にしていいくらいのレベルだと思う。のぶみ氏や「だいすけお兄さん(名前知らない)」は自分の姉妹や娘にもこういうメッセージを送りたいのだろうか。

 

歌詞にはその後「パート」が対比として現れるので、フルタイムを意図しているのだろう。Twitterでは「正社員として頑張って働いている女性もいるのに」というつぶやきも見られたが、男性だって非正規雇用フルタイムはいくらでもいる。とにかく、雇用形態関係なく、どのくらいの育児中の女性がフルタイムで働いていると思うんだ!?と言いたい。

 

で、個人的な怒りポイント以上に、今回の件でとても気になったことがある。

 

「おかあさん」の「感動ポルノ化」

昨今では、24時間テレビ(ほとんど見たことがないが)で障害者とか被災者とかそういった「かわいそうな人たち」の頑張っている姿や、支援を受けたりテレビで注目されたりして喜んだりする演出を(そういう立場にないテレビ局が)作って、そういう立場にない視聴者がそれを「感動」して楽しむ(=消費する)ことが、「感動ポルノ」と言われている。あんまり心地のよくないことばだが、今回の歌も、母親業を「感動ポルノ」のようにしたかったのではないか。この度、のぶみ氏だか「だいすけお兄さん」だかは、すでに自分たちのこの曲を聴いて「感動」したらしく、それをわざわざ告知しているのだ。

 

そもそも、この二人のいずれも「おかあさん」ではない男性なのに、「おかあさん」に関する曲を一人称で作って一人称で歌っているのはなぜだろうか。世のおかあさんの共感を得て、「感動」され、話題になり、曲が売れて自分たちのすでにあるスター的地位をゆるぎないものにしたいのだろう。世の「たくさんのママと話して生まれた」歌詞らしいが、Twitter上を見る限りは共感や「感動」の声は聞こえてこない。「だいすけお兄さん」という人はたいそう人気らしい(これもしらなかったが)から、この人に歌ってもらえば絵本が話題入りしたのぶみ氏と組むことで利益が見込めると誰かが企画したのだろう。(私が知らないだけで、すでにそういうタッグがこれまでにあったのかもしれないが)

 

母親の「声」の主体が、女性ではなく男性に

そして気になったのが、のぶみ氏も「だいすけお兄さん」も私にとって遠い存在なのだが、なぜ「あたし」でつづられる母親の一人称の歌詞が、男性によって書かれ、男性によって歌われるのか、ということ。

 

このことと、時々先の千田有紀氏が批判するようにAKBの曲が秋元康によって作詞されていることを思い出した。秋元康が時代錯誤かつ女性蔑視的な歌詞をAKBに歌わせ、その曲を男女ともに消費していることを。なぜか現実にあるかどうかわからない少女の心を妄想(ファンタシー)で作り上げ、一人称で歌詞にし、それを音楽にのせかわいい衣装とダンスとけなげな少女たちに歌わせる。それを販売し、金銭を稼ぐのだ。

 

男性でも「おかあさん」を「あたし」とする歌詞を作っていいし、そういう歌を歌っていい、男性によっては「おかあさん」の気持ちを上手に代弁できる人もいるかもしれないし、それを男性が歌ってもジェンダーの自由(??)だし、それこそが男女平等だろう、という人もいるかもしれない。今回はそもそも「気持ちを代弁」というところで大きく失敗したのだが、それだけでなく、2点ほど考えなければいけないことがある。

 

まずは、単純に、男女入れ替えてこういうことが起こりうるだろうか、ということだ。男女の社会的地位の不合理な非対称性である。合コンやデート代は男性持ちとか、婚約指輪や結婚指輪を買うのも当然、お金のため、家族のために好きな仕事ではなく稼げる仕事で体壊すまで頑張る、という曲を、女性が作詞して、女性が歌って、その作詞者本人が「感動」したとして、男性も同じく「感動」するだろうか。

 

例えば日本人サラリーマンの悲哀の一人称語りを、例えば白人アメリカ人男性に作詞してもらい、身近に日本人男性なんてごまんといるのによりによって白人アメリカ人男性に歌ってもらい、作詞家も歌手も「感動」とか言ってたら、日本人サラリーマンは喜ぶのだろうか。しかもその歌詞が、「日本人パパである俺はこんなに働いて今日も終電帰宅、休日出勤、ボーナスは毎年減らされ、家事サービスしなすぎて子どもに顔を忘れられそうだけど、会社のため、家族のために24時間戦い続ける」だったとしたら。

 

もうひとつは、一人称(わたし・あたし)で歌詞を作曲したり、歌手として歌い上げるのに、なぜより本物っぽくなる女性が選ばれなかったのか、という点である。通常ならば、本物の「おかあさん」に最も近い人が作詞したり歌ったりすることで、歌詞や歌が「本物らしく」受け取られる。だから、「おかあさん」としての経験のある人が最も「本物らしい」とされるはずである。作詞や歌がプロじゃない(いくらでも女性の作詞家や歌手はいるはずだが)と百歩譲っても、女性を選ぶ可能性がある。しかし、あえて男性なのである。

 

様々な邪推が生まれる。

 

一つは、女性のプロフェッショナルとしての市場価値が男性に比べて低いあらわれということである。今回、女性が「あたしおかあさんだから」を作詞してたとして、企画する側は積極的に売り出してくれただろうか。また、「あたしおかあさんだから」の曲ができた時点で、女性に歌わせるとしたら、企画する側が積極的になれなかったのだろうか。男性は女性の「声」を汲んで上手にことばにできるが、女性は女性の「声」として母親業について上手にことばにできない、また人を動かす力がないと考えているのだろうか。

 

 もう一つは、誰を消費者とするかにおいて、戦略があったのかもしれない。世の「おかあさん」の一部にとってアイドルである(らしい)好感度の高い男性に歌わせれば、その男性アイドルに自分たちの気持ちを理解してもらえたと思い、それが世の男性の理解とも受け止められることで、育児に理解ある男性という流行の男性像をちらつかせて、世の「おかあさん」層をメロメロにすると同時に、話題になり称賛されると思ったのだろうか。

 

私には、ごまんといる「おかあさん」でもある作詞家や歌手がいる中で作詞も歌も男性という理由が、こういうかたちでしか想像できない。

 

育児中の女性の「声」を装った男性。しかもその「声」が本物らしいと男性が言う。男性にも育児中の女性の「声」を出せるという驕り。女性がその「声」が偽りだと主張しても、そうした「声」がまともに受け止めてもらえない。「たくさんのママと話したことが凝縮されている」「偽りと主張するあなたのことは歌ったつもりはない」「ゆえにあなたは素晴らしママじゃない」とかいうのだろうか。

 

一部の人たちがいうように、こっそり(無意識かもしれないが)女性の母親業における「自己実現の犠牲」を美化し、強制しようとしたのだろうか。

 

男性に代弁してもらわないと、女性の思い、母親の思いは人々に共有されないのだろうか。日本の女性、日本の母親は、男性に代弁してもらわないとその存在を認めてもらえないのだろうか。今回の事件は、日本の女性の地位の低さがかなり深刻だということを露呈したと思う。悲観的すぎだったらいいのだが。