ALL iz thiik hai! 一社会言語学者のブログ

社会言語学&バイリンガリズム&南アジア系移民 研究を中心とした自分の思索の記録 ALL iz thiik hai とは、訳すと「ALL is オーケーだ」。かなり色々なものをかけたマニアックで深ーい表現。

ムーミンと「一国家一言語」幻想からのステレオタイプ化

 今年のセンター試験地理Bに、アニメのキャラクター「ムーミン」と「バイキングのビッケ」が登場し、それぞれを「フィンランド語」と「ノルウェー語」と結び付けて答えさせる問題が出題され、話題になった。

 

 

 例題には、「スウェーデンを舞台にしたアニメーション」として「ニルスの不思議な旅」、そしてスウェーデン語の例として、旅の指さし会話帳からの絵入りのフレーズ「Vad kostar det? それいくら」が示されていた。

 

 問題の方では、「Hva kostar det? いくらですか」と「Paljonko se maksaa? いくらですか」という旅の指さし会話帳からのフレーズが示され、例題のスウェーデン語の「Vad kostar det?」に似ている「Hva kostar det?」を、同じゲルマン語族に属するノルウェー語と推定させ、似ていない「Paljonko~」の方をゲルマン語族に属さない(ウラル語族に属する)フィンランド語と推定させるのがねらいだったようである。言語学的には、必ずしも同じ語や同じ語順を共有している言語が同語族とは限らないが、まあここは地理Bなのでそこまで大変なことは求めなくていいだろう。

 

 個人的には、ビッケのことは全く知らず、ムーミンはアニメで見たことはなかった。だから、アニメからの出題は気にくわない。挿絵から、「バイキング→ノルウェー」、「木や平地→フィンランド」を導き出すための問題だとかいう論があるが、フィンランドの国旗や国民食が用いられているムーミンカフェに行ったことのある受験者が有利なのは確かだ。しかし、それ以上に、「たかが高校地理の試験問題」という名目で振りかざされる、様々なステレオタイプ化が気になった。

 

 2014年に、フィンランドに行った。あまりいろいろな知識なく行ったのだが、知識がなかったからか、大いに勉強になった旅だった。実はフィンランドはロシア帝国領だったことがあるとか、日露戦争で日本がロシアに勝って、フィンランドはそれを喜びたたえて東郷ビールなるものが出たとかいう話が頭に残っていると、フィンランドがロシアから常に独立していたのではないかと勝手に考えていた。(しかも、東郷ビールは嘘だった*1とかいうからね、最近は。)

 

 それから、ヘルシンキではスウェーデン語とフィンランド語が公共の場で併記されていた。しかも、あのかの有名なムーミンの作者、トーヴェ・ヤンソンは、スウェーデン語が母語で、主にスウェーデン語で活動し、ムーミンを書いたのもスウェーデン語だったのだ。それだけスウェーデン語の重要な使い手だったわけだけど、フィンランドはフィンランドの偉人として当然に讃えているのだ。しかも、別にトーヴェ・ヤンソンが少数民族とか、そういう描き方ではなかった。国の名前と言語の名前が一致すると、それが唯一の国語だと思ってしまう自分の頭の中が、いかに一国家一言語幻想に染まっていたのか、思い知らされた。

 

 ちなみにトーヴェ・ヤンソンでびっくりしたのは、それだけではない。彼女がとても多才で、絵画や小説だけでなく、造形までやっていたことと、女性のパートナーと生涯を共にしたことが衝撃的だった。

 

  今回のムーミンの件は、ステレオタイプや細かい事実誤認に異議を唱えた人々と、受験という大義名分のもと、ステレオタイプから「正しい答え」を導き出すことを正当化する人々との議論となった。しかも、その議論がかみ合っていない。他者には些細に見えるが当事者にとっては重要な事実を軽視することで、ある事象に関する誤解に発展することに警鐘を鳴らす前者に対し、後者はそんなマニアックな情報は切り捨てるべきで「知識」や「常識」からいかにこの試験の目的である「正しい回答」が導き出せるかを主張している。しかも、後者の論は本当の知識(≒事実)に基づかない、「常識」的テクニックを使うことを主張していて、ますますステレオタイプ化に拍車をかけそうである。それは例えば、今日読んだこの記事*2にもあった。

 

 もう一つの選択肢である各国の言語についても、立地的にノルウェーとスウェーデンが近いことを考えれば、似た言語の方がノルウェーであると推測できる。その上、挿絵のトナカイからもフィンランドを連想できるようにもしてある。

 

  地理的に隣接していれば、言語が近いことは多いが、必ずしもそうではない(世界の多言語国家は、国内でも語族が異なる言語が共存していたりする)。トナカイだって、サーミ人だって、フィンランドだけでなく、ノルウェーやスウェーデンにだってたくさんいる。バイキングだって、フィンランドまで来た。それなのにこの記事は、「答えが一つとは限らない問題に対応する力」を主張しながら、言語やトナカイやバイキング、一つ一つの事象に、一か国を当てはめることに、少しの躊躇もなく、今回の試験を幅広い教養で答えることができたと擁護している。

 

 そんなわけで、今後の社会に必要な「柔軟性」とか「多様性」がこの回答方法にみられたとかこの記事では言っているが、そんな曖昧なものを求めるよりもますます情報のあふれる今後の社会に重要なのは、ステレオタイプによって曲げられた事実を認識し乗り越える、というリテラシーではないだろうか。