ALL iz thiik hai! 一社会言語学者のブログ

社会言語学&バイリンガリズム&南アジア系移民 研究を中心とした自分の思索の記録 ALL iz thiik hai とは、訳すと「ALL is オーケーだ」。かなり色々なものをかけたマニアックで深ーい表現。

研究は趣味ではない

先日、会社勤めの友人と久々にランチした。

これまで感情や意見のすれ違いがあったこともあったけど、基本的には互いを尊重してこられた、とても親しい友人だ。

研究世界にいると趣味が続けづらいといったら、まあそうだよね、と言われ、

「でも研究は趣味みたいなものでしょ」

と言われた。

 

いい返事ができなくて、その場で、「まあそうかもね」と言った。

でも、ちょっと失敗したなとは思った。

大変だけど、ちょっと努力するし、動機があって行う活動で、長く続ける活動で、経済的な見返りのためにやっているわけではなく、時に自腹を切っているという点では、確かに「趣味」に近いと言えなくもない。

しかし、同様に、「趣味」と言ってはいけないのだ。

今回は、なぜ「趣味」と言ってはならないか、非職業的研究者に対してではなく、どちらかといえば自分を含めた職業的研究者に対する自戒の気持ちをこめて、書きこぼしておく。 

 

 

職業的学術研究は、必ずしも自腹を切ってやっているわけではなく、他者のお金をもらって行っていることが多い。まず、教育研究職は、研究をすることを前提に、給与や給与らしきものが与えられている(何時間研究しなければならないという規定はなく、人によっては研究時間がないほど他の業務に追われるが、少なくとも、理論上はそうである)。

所属機関や身分によっては、それに加えて研究費が与えられている。所属機関からもらえなくても、自称職業的学術系研究者なら、競争的研究費(科学研究費と呼ばれ、文科省直下の独立行政法人である日本学術振興会から与えられる)に応募する資格がある。競争的研究費を勝ち取れば、それはやはり自分の(趣味的)余裕資金ではなく、研究するために集められた(他者の)お金である。研究ができなければ、職務を果たしていないし、成果(褒められる業績かどうかではなく、進捗があったか、それを形にまとめたかどうか、も含む)研究費の支給源に対して約束違反をしていることになる。単なる形になるまでのプロセスにかかる経費を埋め合わせるのではなく、そのプロセスを形にするまでが、約束だと思う。

 

研究者の世界でも、この辺りを少しはき違えている人がたまにいるように思われる。多少の自戒を込めて、書き出してみよう。本人はプロとして研究しているつもりだが、どこか認識が甘く、形にしていない。もちろん、形になるのに時間はかかる。大きな計画があるならまだしも、何か出るかもしれないと、ただそれまで行ったことをあちこちの学会で「成果発表」するだけ。自分が、データ化や分析において、そんなに早いペースで動けないのがわかっているのに、大量のデータ収集だけしてしまう。年度内ないし支給期間に何らかの成果が出せる見込みかどうかを判断せずに、とにかく集めてしまう。書類のささいなところは気にするのに、書類に書けるような行動を起こしていない。それで、すみません、全ておまかせしますならまだしも、報告書に書けるようなプロジェクトの成果を作ることに関しては貢献度が低いのに、自分の研究費の取り分だけは要求する。

 

「趣味」感覚は、研究費の提供源に対してだけでなく、調査協力者に対する社会的責任を曖昧にする。調査協力者は、私的行為のみのために、調査に協力してくれているわけではない。何らかの公共知のために、時間等を提供してくださっている。研究者の私的関心や思想的立場が研究の原動力になっていたとしても、調査協力者は必ずしも研究者とを思想的立場を同一にしておらず、使われ方によっては、不快に思うこともあるかもしれない。

 

また、もちろん、「趣味」感覚は、「趣味」感覚で研究しているわけではない共同研究者にも迷惑である。自分の私生活が共同研究の足かせになっていても、グループ内でそれを補うための有効な動き方をしない。頼んでもいない雑用を積極的にこなそうとしたり(それよりも、重要な部分にとりかかってほしい)、書類に些末な修正を入れてみたり、段取りを考えなかったり。仕事だったら、グループ内で何が必要か、他のグループメンバーの指示に従うべきなのだが、そういう発想がややおろそかになる。

 

自分が共同研究する相手は、どのような研究者だろうか。なかなか見極められずに、タッグを組むと、大変な不幸が降ってくる。多くの人は、同じ研究室出身だったり、本当に関心が同じだったりするので、それなりにうまくやっていけることが多いと思う。しかし、たまに、声掛け人なのに、計画やコミットメントが大変怪しい人(または、そのあたりに関する認識が、信じられないくらいずれている人)もいるようなので、声かけられたからといって安易に参加すると、痛い目に遭うこともあるようである。