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ALL iz thiik hai! 一社会言語学者のブログ

社会言語学&バイリンガリズム&南アジア系移民 研究を中心とした自分の思索の記録 ALL iz thiik hai とは、訳すと「ALL is オーケーだ」。かなり色々なものをかけたマニアックで深ーい表現。

映画『ミスター&ミセスアイヤル Mr. and Mrs. Iyer』(2002)

 タミル人バラモン(ヒンドゥー教徒上位カースト)(かつ物理学修士)のミーヌが、山奥の辺境から、乳児を連れて一人で夫+夫親族の待つコルカタに戻る間に、勃発した地域的な宗教対立抗争に巻き込まれる。父の知人の知人である野生動物写真家"ラージャー"がこの旅路に同行していて、ところどころで助けられていたが、その人がムスリムであることを途中で知る。ショックを受け、一瞬侮蔑しながらも、勃発した厳戒態勢の中、命の危うい彼をかばい、自分の夫Mr. Iyerであるとテロリストおよび会う人会う人に述べる。後半では、二人の間に淡い愛情が育つが、(もちろん)終着地のコルカタ駅で、別れる。

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(写真:Mr. and Mrs. Iyer - Wikipedia

 

 この映画を2017年に見てショッキングなのは、まだSNSの発達していない2002年から15年経った今でも、宗教対立が勃発しやすいインドの情勢は大きく変化していないこと。2015年の終わりから2016年の初めにかけてにあった、牛肉を食べたためムスリムを村で暴行して死亡させ、そしてそれで各地に飛び火する宗教ヘイト、は記憶に新しい。

 

 

 この映画を見て思い出したのは、この映画が公開された時代は、歌や踊りをちりばめない、価値観がモダンで、登場人物がそれなりの量の会話を普通に英語でこなすインド映画が増えてきた時代だったのではないかということ。タイトルも忘れたが、このころ見た別な映画でも、「野生動物写真家」なるリベラルな価値観をもち、欧米のスタイリッシュな若者の格好をしている男性が出てきた(舞台がインドだったかどうかは忘れた)。この映画でも、インドの西洋化されたお金持ちの持ちそうなアウトドアグッズに、最高級のカメラを持っていた。その映画と違ったのは、ヒロインが、英語を自由に話しながらも、子持ちで伝統的な衣装に身を包み、厳格な菜食や飲食のルール(映画の中でもフォーカスがあたる、ペットボトルに口をつけずに飲むなど)を守り、自分の子供に厳めしい名前をつけることだ。(そして先にも挙げたし、作中でも男性がいう「それにも関わらず物理学修士」、モダンな教育を受けたエリート女性の象徴だ)

 

 なぜあえてこんな視点からコメントを綴るかというと、2002年以降、宗教間恋愛・結婚は、メディアや映画で話題にされ、時にはもっと具体的な形で表現されてきたからだ。

 ボリウッドの大スターShah Rukh Khanは、自ら異教間結婚を実践し、互いの宗教を尊重し、子どもは両方の価値観のもとに育つという寛容が「インドの価値観」であると公言している。SRKに限らず、ボリウッド界の異教間結婚はかなり盛んだ。SRKが主演した『Veer-Zaara』(2004)は、パキスタン国籍ムスリム女性とインド国籍シーク教徒男性―緊張関係にある国家~宗教間の恋愛が題材だ。同じく主演した『My name is Khan 』(2010)も(実は、見たいけど見られていない映画のひとつ)異教間恋愛だ。SRKから離れても、近年の『Khuda kay liye』(パキスタン、2007)や『PK』(2014)など、宗教に対してはっきりと疑問を投げかけ、聴衆に問いかけるものがどんどん出てきた。

 そんなわけで、私のように2017年に初めて『ミスター&ミセスアイヤル』を見る人は、公開当時に見た人が受けたレベルの衝撃と感動を、残念ながら味わえないのかもしれない。もしかしたら、この映画は、一連の宗教というテーマの映画が現れるきっかけを作ったのかもしれない。そういう意味で、重要な転換点だったのかもしれない。ただ、その点については、私はよくしらないので、「かもしれない」「かもしれない」にとどめておく。

 

 ラージャーは、私の目からは、単にリベラルでモダンな、色々知っているように見えるけど根無し草な男にしか見えない。同行者は、インド系アメリカ人の共通の友人を思い出したようだ。英語がインド出身に聞こえない、と。私も、あの服装と話し方と価値観と持ち物から、在外インド人に見えると思う(在外インド人が軽い、というわけではない)。同行者はインド映画をあまり見ていないから特にそんな印象を持ったのだろうが、先述の通り、このような在外インド人みたいな人たちが2000年以降映画のヒーローになり始めていたので、まあ映画だしこんなもんかとも私は思った。まあ、私にとっては見飽きた、世界をいろいろ見てきてそれを語ってそうした世界を知らない人を魅了し(世界一周ブロガーみたいな)、その世界を見てきたことが経済文化社会資本となる(世界一周をネタに本に写真に)、物資的に西洋の消費にどっぷり染まった服装の男だが、インドではむしろ、こういうリベラルな男が、伝統的な宗教的実践を疑いもせず守って保守的な現代生活を送っている高学歴男よりも、考えが深く魅力的に見えるのかもしれない

 

 長い長い前半のバスの日常のシーン。それに比べて、逃避行は思ったより短かった。どうしてタミル語ではなく互いに英語で話しているのに、タミル人であることがそこまで疑われないのか。どうして初めはバラバラに座っていたのに、誰もその後何も言わなかったのか。若者たちが「南インドに行こうよ」というのだが、じゃあこのバスや経由地やこの女性の実家はどこにあったのか、とか。女性がもし北インド育ちなら、ヒンディー語もう少し話せてもおかしくないし、とか。私は社会言語学者だからそちらに気がいってしまった。

 

 ささいすぎるが、つい気になってしまった英語の誤訳。初めの方のバスに乗り込む前に"misted up"という表現が「霧が晴れた」(「霧がかった」なんじゃないかな)、森で寝ているラージャーとミーヌが仲直りするときに"do you mean that"が「あのこと」と訳されていたり(「本気?/心から?」なんじゃないかな)。

 

 ちょっと期待しすぎたのか、ネガティブなことばかり書いたが、淡く深い恋愛物語、また社会派である点で、高く評価すべきであるのは間違いない。エンディングもいいと思う。道中はたった一人で誰も見知らずマイノリティの存在だった彼だが、コルカタの駅(どうでもいいけど小さく見えるから、ハウラーじゃないんだろうな)では、本名が印刷されたネームプレートで待っている人が三人ほどいるのだ。唯一の想い出である(しかも、本当は彼の商材になるんじゃないかと思われる)フィルムは、彼女の手にポンと渡されてしまう。二人の恐ろしくも甘酸っぱい思い出は、どうなるのだろうか。まさか、現像して夫+夫親族にいろいろ聞かれたら結構怪しいし(まあ、「まさかそんなことはない」と信じる人たちかもしれないが)。現実的には、許可なく撮影した一般女性を被写体にしたフィルムは手元にあまり残しておきたくなかったのかもしれない。彼が彼女に、国内のムスリムのこと、また彼とのこと、もっと自由な考え方があることを、忘れないでほしかったのかもしれない。そんな、いろいろなことを想像させてくれるエンディングは、私も好きだ

 

 先日『恋する輪廻オーム・シャンティー・オーム』(@宝塚歌劇)を義母と見て、「急に歌って踊って、がびっくり」とか「輪廻転生とかいう考え方」が「インドらしい」とか言われた。こうした表現が、インド映画の決まり文句になっている。インド映画を初めて見る人にとっては、これが一番素直な感想なのだろうか。私の感覚が麻痺しているのは当然だろうが、こういう相容れない社会的カテゴリー間の、淡い(関係をもったことのほのめかしどころか、情熱的なキスや抱擁もない)けど深い(きっとこれで主人公が恋愛相手に手紙を書いたりしたら、『マディソン郡の橋』みたいに、「一生忘れない」「あなたの一生の幸せを遠くから祈る」、とか書くのだろう。あ、私『マディソン~』は見ていませんが)恋愛感情にこそ、「インドらしい」という表現を使いたいと思う。