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ALL iz thiik hai! 一社会言語学者のブログ

社会言語学&バイリンガリズム&南アジア系移民 研究を中心とした自分の思索の記録 ALL iz thiik hai とは、訳すと「ALL is オーケーだ」。かなり色々なものをかけたマニアックで深ーい表現。

映画『十四夜の月 Chaudhvin Ka Chand』 (1960)

南アジア 非研究系の呟き

グル・ダットGuru Dutt作品は、2作見ているが、

約10年ぶりにまた別なものを見る機会に恵まれた。

 

『十四夜の月 (Chaudhvin Ka Chand)』 1960年インドの映画。

 

Guru Dutt本人と、有名なWaheeda Rahmanのペアは、

別なDutt作品(『渇き pyaasa』)でも見たので、おっ、今度は最初から結ばれる幸せな恋愛じゃないか、生まれ変わってよかったね、のような感触になる。

(『渇き』でDutt演じる主人公は、昔の恋人が忘れられず、Waheedaが演じる役とはそこまで仲良くならない)

 

昨今の映画はどこでも、インドでも、

一番重要で声高らかに謳われるのは、男女間の愛。

(まあ、インド映画なら次点で親子の愛と国家への愛が来るだろう。)

しかし、この映画では、走れメロスよりも濃い友情が太い糸を紡いでいる。

その糸の間に、美しい女性が絡まる。

この女性は、この映画のポスターのどのバージョンにも被写体として載っていて、

主役である恋する二人の男性は、三人がいるバージョンにしか現れない。

それでも、私の目には、この映画の一番の肝は、男同士の濃い友情である。

「心は一つ、体は二つ、ではなく、心は一つ、体は三つ」と、三人組の一人は劇中でいう。

 

自分の溺愛する妻を、友人に譲ろうとする、

そして、全てがうまくいかなくなったら、

自分の命を犠牲にして、友人の幸せを達成させようという、

大変な自己犠牲的な友情。

夏目漱石の『こころ』のような、

ずる賢い個人主義な近代人の薄っぺらな友情(略して「薄情」)ではなく、

「犠牲(クルバーニー)が大きいほどより多く与える(劇中の妻のセリフ)」という、

宗教的視点が入った情であるといえる。

(そして妻は、「(友情のための犠牲でどんなに失っても)あなたの損にはならないわ」という)

 

今回は、イスラーム映画祭2(ユーロスぺ―ス)の一作品として選ばれていたのだが、

パルダ(男女隔離)やブルカ(女性の全身を覆う布)や、

イラン方面からやってきたシーア派の都だった在りし日のラクナウの街並みではなく、

むしろ彼らがここでいうクルバーニー(犠牲)こそが注目されるべきイスラームの世界観だったのではないかとまで思う。

 

今回のトークショー(麻田豊氏)では、グル・ダット礼賛ではなく、ラクナウの背景と、ワヒーダに関するエピソード等が話題にあがった。

 

Waheeda Rehmanは、私生活をマスコミに口外しないと宣言し、Guru Dutt死去10年後にヒンドゥー教徒と結婚している。80代になった今でも、時にその気高い姿にお目にかかれるのだそう。そして、2011年には、大変な低姿勢で麻田氏にメールされたそうだ(「私のことを覚えていますでしょうか、東京でお会いした…」と綴ってあったそうだ)。

 

劇中で、Aslamはたとえ話をして、妻に指示を仰ぐ。

「友人のものは友人のところに返さなければいけない」

はっきりこういった妻のこのことばが、取り返しのつかない悲劇に追い立てる。

(結局最後には、Aslamは妻を失わなくてよくなるし、妻もAslamを失わなくて済むのだが)

(妻、妻、と書いてきたが、名前を忘れていたのであった。ジャミーラだった。この名前は本当に数えるほどしか言及されず、「妻」か「娘」か「恋するあの人」で言及されることが圧倒的に多かった―これもとてもイスラーム的だ。)

Guru Duttが死去しても、私生活を口外しなかったWaheeda Rehmanは、

それによって自らの品格だけでなく、Guru Duttの品格も守り、

古き良き映画界の品格も守り、先に挙げた、ジャミーラの、

気高く自己犠牲的な友情観に通じるものがあるのではないだろうか。

そういった意味で、Waheeda Rehmanを、Guru Duttのミューズとしてしか見ない、

「グル・ダット礼賛」の論調とは少し異なる側面が見られた点が、

今回のトークショーでの収穫であった。

 

ところで名前で思い出したが、

トークショーで麻田氏が、

「Guru DuttはWaheeda Rehmanに、名前が長すぎるといった」

と述べていた。

Guru DuttもJohnny Walker(今回出演の道化役俳優)も

その他インド映画界に携わる人たちも、本名は大変長いらしかった。

また、ムスリムにもかかわらず、ヒンディーまたはヒンディー以外の名前をつけていたことも多いらしい。(例:Johnny Walker → Badruddin Jamaluddin Kazi) 

先週見た「恋する輪廻・オームシャンティーオーム」(宝塚劇場)でも、

スターとして活躍したいなら名前を変えろ、というシーンがあった。

以前見たインド映画"Shamitabh (2015)"でも、

映画スターを夢見る主人公は、売れるようにみんなで名前を変えた。

まあ、日本でも世界どこでも芸名の慣習はあるだろうが、

何が「売れる名前」「スターっぽい名前」なのか、

調べてみると面白いかもしれない、と思った。